今色々と新作のプランを書き溜めてるのですが
色々と情報収集する中での私の考えをまとめてみました。
現代アート:
特に前衛と言われる分野においては境界の線上に立ち入る事がアートとされる。
境界線自体にも幅があって、率先してその敷居を踏む事で定義される芸術を実践するということ。
現代アートは関係性において定義されていて、構築・脱構築、テクスト、メディア、空間が織りなす相互関係から芸術作品が存在する。
つまり、表現された結果としての形ではなく、ツールの使い方、その関係性において芸術は定義される。
このような議論の余地は限りないのだけど、特に目新しくもなく、ある種当たり前の内容。
問題はコンテクストの喪失の中で取り入れそこなった現状と、
枠を捉えなおすはずの境界・関係性の定義が新たな枠となってしまうという皮肉にある。
という事でこの議論はそろそろ飽きてきちゃいました。
個人的には乖離というメトリックで芸術の定義を勝手にしてきたけど、境界や関係という内容がもう乖離を生まなくなってきているのではないかと。
そもそも乖離という尺度自体がある種境界と関係を内包しているので、その乖離あるいは乖離「幅」というメトリックの限界も感じてる。
絶対・相対、主観・客観、あらゆる二項対比の間にある「境界」のグレーゾーン、
例えば崇められる存在としての神の領域を踏みにじったり、例えば社会的な表現によって常識を打ち破る事で芸術になるという考え、
また、その踏みにじり方が芸術の裏付けとなり、差別化となり存在意義となるという考えには同調する。
ただ、境界や関係という文脈で芸術を考える事が既に二項対比の片側に存在してしまっているのではと思うようになったし
であるなら、そのもう一方、あるいは境界線上、あるいは別次元の解釈はどこにあるのだろう?と思う。
その答えを導くためには「過程」としての美の定義、さらには精神構造、感覚、脳科学、物理、生物、宇宙、数学、宗教、文学、社会学など
あらゆる知を取り入れる必要があって、それらを徹底的に相対化して「再定義」あるいは「脱構築」する事が必要になるんじゃないかな。
何が芸術的帰結としての反応であり、また作用なんだろう?
全てが相対化され、また逆に絶対化されたものを拠り所にいとも簡単に溺れてしまうこの時代において
ある意味無限の数の思想が全て美かもしれないですね。